その足は決して地に溶けない

Orillo.orgをご覧の皆さん、はじめまして!
わたくし、Tokinと申します。普段はイラストや漫画を描く仕事をしています。
ちょっと長くなりますが自己紹介もかねて、自分がなぜOrilloに関わることになったかを書いてみることにしました。よろしくね。

私は学生時代、メンタルの具合を悪くして学校をやめてしまいました。以来、仕事をしたりやめたり、精神病院に入退院を繰り返したり、完全に七転八倒。その間、自分の不安を埋めるように、様々な生きづらさを抱える人に会い、イベントなどに触れてきました。
そして今は、メンタルヘルスなどについての、絵や漫画を書く仕事をしています。

そんな中、学生時代から今に至るまで、どこに行ってもある共通のひっかかりを感じていました。
それは、固定された「場」の存在です。
例えば、学校や、職場環境でメンタルを病んだ場合、なぜか同じ場に戻ることが復帰とされる場面がしばしばあります。
就学、就労というのが、一般的な「場」だと社会に設定されているからでしょう。自分を傷つけた構造の中に(同じ職場や学校じゃないとしても)、自分を変えることで再び戻る。それが、健康的な復帰とされることにうっすらと違和感を抱いていました。

その疑問は、精神科に入院した際も、さまざまな居場所で人と接する際にも共通して感じるものでした。「場」に合わせて自身を変えることが、社会復帰となるのです。
多数派で一般的(とされている)ルートを歩むのが「復帰」。嫌な人とも付き合えるようになるのが「適応」。内側の自分より外を優先できるのが「健全」。
そういうもんだと納得する一方、場所や制度やコミュニティなど、既存の「場」の上にうまく乗ることが正しさであるかのように言われる違和感は、小さくも拭い難いものでした。

しかし、ある時、その違和感へのヒントを意外なところに発見します。それはデジタルツールとの向き合い方です。

SNSが生活に浸透し、私たちは次々と新しいガジェットを使い、新しいプラットフォームを使い、また、新しいそれらが登場するごとにライフスタイルや価値観まで変えて行くようになりました。
そのように次々と乗り換え、気持ちを上塗りしていくことがさも良いことのように論じられる。
それはまさに、先述したような「上手く乗る事が正しさなのか?」という疑問と合致するものでした。自分自身の在り方より、場=プラットフォームが優先されているのです。

一見して私たちはそのプラットフォームを主体的に選び、使いこなしているように感じます。しかし一歩引いてみればそれは、プラットフォームに囲われ、そこでのルールにしばられているとも言えます。

わかりやすい例で言えば、SNSの使い方がその典型でしょう。アルゴリズムが変更されるごとに、それを把握し、数字を稼ぐ事が有益ということになる。実際はそのルールのペースにも内容にもコントロールされているにも関わらず、です。

これはネット上の話だけでなく、多くの場面で見られることです。制度の範囲内や“空気”に反抗しないほうがベターであるという感覚。デモなどのアクションを起こす人を冷笑し,現状の社会状況とどまることを器用な生き方と考えること。

しかし、果たしてそのプラットフォームや制度は、自身の時間や身を委ねて良いほどの正しさを持っているのでしょうか。そもそも、その正しさを図る時間を私たちは持てていないのではないでしょうか。

そして、それらの背後に見えた別の問題が、生活の支えとなる部分が経済環境に左右されるということでした。

もともとは個人のやりとり程度のものだったTwitter(X)に行政の公式アカウントが出来、LINEは生活インフラになり、今やスマホがなければ必要な情報はほとんど得られなくなっています。
しかしこれらはしばしば営利に直結しており、有料化することでその利便性を増していきます。つまり、そこに入っていけない人は少しずつ社会に参加する権利を失っていくのです。

この仕組みは、直球で生きづらさにつながっていると感じました。
信頼の有無がわからない場で、なし崩し的にそこでのルールに身を委ね、しかもそれが出来ないとなればネガティブな刻印を押される。

自分が見て来た、生きづらさを取り巻く景色と、なんとなくしか意識してこなかった、デジタルツールとの日常。

両者が思いがけずオーバーラップした時、現状を変える突破口がそこにキラリと見えた気がしたのです。
「固定されたプラットフォームから降りることはもしかして、大きな鍵になるのでは?」。

これまで私は、社会に対する疑問や批判を、柔らかさをまとった漫画や絵で(かなり遠回しですが)おこなってきたつもりでした。しかし、混沌とした社会情勢が人を飲み込んでいく今、これまでのやり方では私も飲み込まれてしまう。とはいえ、ほとんど創作しかしてこなかった私に何が出来るのか……。

そこで、ひとまず私自身が、創作という「場」からおりて歩いてみることにしてみました。と言っても、創作をやめるわけではありません。これまで培ったものをそのまま持って、創作を含んだ、これまで以上に広い場を歩き、アイデアや仲間を集めてみたいと思ったのです。

そうして出会った関係の中で、Orilloに携わることになりました。
今後は絵のお仕事と並行して、ここでさまざまな角度からプラットフォームを降りて生きる方法を実践し、探りたいと思っています。

この先に、舗装された道はまだないかもしれません。しかしプラットフォームの上からは見えない景色があり、歩き方を規定されない自由があります。

私はこれまで散々聞いてきた「障害があるから仕方ない」「マイノリティだから仕方ない」「こういう時代だから仕方ない」という言葉の奥に行きたいと思っています。
全然、仕方なくないからです。

誰かが作ったプラットフォームからおりること。それは逃げでも失敗でもない、主体的な行動です。
大丈夫だよ、私たちは、ドロップアウトしても死なない。
私たちが立っているのはプラットフォームではなく、自分自身の地面なのですから。

Tokin
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